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2012年7月10日火曜日

豪華な二本立て

(不思議な国のサトシ、の話)
とある人物の発言。

「自分の知っている世界だけに閉じこもり、その外の世界にある世界を否定しているやつがいる。そういうやつらはどうしようもない。頭悪いんだなぁと思うしかない」

上記の「自分の知っている世界だけに閉じこもっているやつ」の例を挙げるとすれば、
この世に金で買えないものはない、と思い込んでいる人。である。


人それぞれに捉える「世界」というのは、全く異なっているだろう。
それは例えば、「ポケモン赤」のサトシと「ポケモン緑」のサトシが見る世界が異なるように。


人は成長の過程で、自分の認識する「世界」というものがぶち壊されたりして、
自分の認識する「世界」の外側にもっと広い「世界」があることに気づく。

もしかしたら、早い段階でこの「膨張」が止まってしまう人もいるかもしれない。

いや、もしかしたら、止まってしまうというより、止めてしまうが正しいかもしれない。



「とある人物」の発言に賛同できなくはないんだけど、
よく考えてみれば、「膨張」を止めてしまったからといってそいつは不幸になるわけじゃない。

「ポケモン赤」の中のサトシは、
「あれ?なんでだろ、151匹見つからないなー、おかしいなー」とか言いながら、
四天王でも倒しまくって案外幸せな人生を歩んでいるかもしれない。


まぁでも「とある人物」は別に幸福かどうかは問題にしてない。
しかし、明らかに見下してはいるわけで。。。

と、このまま続けていくと、
「人の世界はその個人の中で完結するわけだから、他人を見下すことはできない」
とかいうどうでもいい結論に落ち着きそうなので、このあたりにしておく。



(表現についての話)
絵画にしろ、音楽にしろ、演劇にしろ、
何かを表現するということは、
精神で感じることを肉体を媒体として具現化することだと思う。

いくら精神の感受性が優れていたって、
肉体の具現化力が精神に追いついていなければ、肉体の具現化力以上の作品はできないだろう。
逆に、いくら肉体の具現化力が優れていても、精神の感受性が貧しければ、陳腐なものに終わる。
※ボキャ貧によって無駄に難解な表現になっている

インドの宿に置いてあった10年以上前のミスチル桜井のインタビューには、
どうやって作曲してるんですか?という問いに対して、
「僕は宇宙からの信号みたいなものを音にしてるだけですよ」
「誰だって信号は感じ取れるはずです」
という発言をしていた。


僕も同感だ。
誰だって、子供の時の感受性が保たれていれば、
外界から精神が感じることは鮮やかだろう。

一般に肉体の具現化力だけに優れるものは一般的に職人と言われる。
何度も何度も同じ練習(反復、稽古などなど)を繰り返して、
肉体の具現化力を最大限にしていく。

しかし、反復練習によって、感受性が鋭くなるわけではない。
僕はむしろ鈍くなるとさえ思っている。

これが表現の難しいところだ。

2 件のコメント:

  1. 「外の世界を否定することは頭の悪いこと界」に閉じこもって、とやかく言うそいつも頭悪いことに。

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    1. そうそう、「バカって言った方がバカ論」に収束してしまうよ。
      否定的なやつが否定的なこと言うと。

      「世界」について述べたいのに、「世界」は個人のものだから結局、個人の話に帰結してしまうねー。
      「個人」と「個人の関係する事象」を独立させて、個人が述べることは不可能なのかああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!

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