斎つの乙女、其れは近寄り難く、至らず吾しを。
たまに、僕は飼いならされたペットのように、どこの行き場もなく感じてしまうんだ。
昔は、まだ、違ったんだ。
アデルノは、自分が生まれ育った町から離れれば、そこには別の世界があると思っていた。町に多少の不満があっても、最終的には他がある、と落ち着くことができたのだ。
しかし、別の世界はなかった。
走っても、走っても、そこに広がっていたのは景色が違うだけの、同じ世界だった。
いや、それはもしかしたら間違っていたかもしれない。
いつもの彼の「過剰一般化」からくるものだったのかもしれない。
あの町を離れて、この町に来ても、僕が描いていた「世界」はなかった。
きっと、どこに行っても同じなんだろう。
僕は、どこに行ったって。
僕はこの「世界」のペットなんだもの。
アデルノは、田舎町に4人兄弟の次男として生まれた。
父親は町の郵便局に勤める勤勉家だった。
母を小学校の時に亡くしていたが、親や親戚などから十分すぎるほどの愛情を受けて育った。決して甘やかされたわけではなかったが、彼が「世界」を知るのには遅すぎた。
僕は、「この世」っていう場所が、素晴らしい場所で、理想郷の追求を許された場所だと思ってたんだ。「競争」よりも「協力」が優れ、弱者の生命にこそ美を許された世界だと思っていた。
けれど、実際は違うんだ。ただ夢も希望もない世界に、僕たちが装飾を施していただけなんだ。食い散らかされたトカゲはそのままで、いずれ土に還っていくだけだった。
「死ぬことは辛い、しかし、生きることはそれ以上に苦しい。」
偶然にも、アデルノは同年代にゴッホの発言と同じことを日記に記していた。
アデルノがゴッホのように歴史から認められることはなかった。
それは、彼にはゴッホのように心を許し合えた友人がいなかったからだろう。
「ただ、マリア。
彼女の存在で、その苦しさは幾らか紛れたのだ」
アデルノはまた、早朝に家を出て、走り出した。
マリアがカトリーヌと早朝にランニングをするのは、月曜の朝だけだった。
いや、他の日にも走っていたのかもしれない。けれど、僕が彼女を見かけたのは少なくとも月曜だけだ。
いつもと同じ時間に、いつもと同じペースで、町をかけていくアデルノ。
天気は悪く、雨がいつ降り出してもおかしくなかった。
『今日こそは、マリアと話さねば!』
アデルノは、マリアと会話をしたことがなかった。
一方的に思いを抱いているだけで、会話すらしたことがなかった。
『確かに僕らは話したことはない、けれど、彼女は僕に大きく手を振ってくれたのだ!』
それは春の日、仕事の帰り道、にぎやかな大通りで彼女はカトリーヌと馬車に乗っていたんだ。僕の右横を馬車が通り過ぎて、女性がこちらに向かって笑顔で手を振っていると思ったら、それはマリアだったんだ。
『彼女は僕に微笑みながら、手を振ってくれたんだ!』
『一度も話したこともない、僕に!』
その日から、アデルノの「世界」は少し様相を変えたようだ。
そして、毎週月曜の朝すれ違うランニングの時に、話しかけようと。
『今日こそは、今日こそは!』と。
そして今日も。
マリアとカトリーヌは遠くから、いつものようにこちらに向かって走ってきたのだ。
『今日こそは、今日こそは!』
マリアはすれ違い様にいつも通り会釈した。
僕は、その瞬間に自分の汗の匂いに気づいてしまって、話しかけることをやめてしまったんだ。神聖な彼女を汚してしまうような気がして。
『愚か者、愚か者!ろくでなしめっ!』
汗なんかどうだっていいじゃないか。何をしてるんだ僕は。